○○○ (気付いたときには) 遅すぎる日記 ○○○
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2015年 8月 2日(日)
『週刊金曜日(15/7/24)』
より。
日本人が記録した南京大虐殺
(P34-、辺見庸「1★9★3★7 『時間』はなぜ消されたのか」)
● 29.
容赦なく即座に殺戮
ひとの〈ひとりびとり性〉の対極に戦争があり、1937年のニッポンの集合化があった。かつて佐々木到一という陸軍中将がいた。南京攻略戦当時は陸軍第十六師団第三十旅団長として戦闘と大殺りくを指揮し、そのことを日記風の「戦場記録──中支作戦編」として、わるびれず書きつづり、タイプ印刷したものが、
集英社の『昭和戦争文学全集 別巻 知られざる記憶』
(1965年刊)に収載(解説・橋川文三)されている。
南京大虐殺は、あったもなかったもない、ここにはごくあたりまえの風景として記述されているのだ。
1937年12月13日の日記をみると、つぎのくだりがある。たえずはかなく消えてゆく小さなものがここにはある。佐々木はそれを意にもかいさない。
隣家に赤子が遺棄されていると書記が報告した、人の子一人いない江岸の半農半漁の部落である。あすの日から戦闘を予期する我部隊に赤ん坊の収容も慈悲はたんに当座に止まるのみであることを思い、予は聞かぬこととしたが、さるにても我子を遺棄する無慈悲な支那の母親の心情が腑に落ちぬことである。
安心、熟睡。
水際にきょうを限りと気負いしが
長江の水ただ脚に冷たき
佐々木は陸軍きっての「支那通」として有名だった。それが、「さるにても我子を遺棄する無慈悲な支那の母親の心情が腑に落ちぬことである」だという。
押し込み強盗のように大挙侵略してきた「皇軍」から命からがら逃げるひとたちのきもち
など一顧だにせず、安心、熟睡したそうである。そして無神経・無感覚・空疎を地でゆく歌一首……。翌12月14日に、佐々木の第三十旅団はいよいよ南京城内外の「掃蕩」を実施する。「いたるところに潜伏している敗残兵をひきずり出す」「五百、千という大量の俘虜がぞくぞく連れられてくる」とある。かれらひとりびとりはどうなったか。
城内にのこった住民はおそらく十万内外であろう。ほとんど細民ばかりである、しかしてその中に多数の敗残兵が混入していることは当然であると思われる。(中略)
守(ママ)将が逃げた後にのこされた支那兵ほどみじめな存在はないのである、彼らに戦意の程がありや無しやは自明の理であるが、彼らにはもはや退路がなかったので死にもの狂いに抵抗したのである。
敗残兵といえども尚部落山間に潜伏して狙撃をつづけるものがいた、したがって
抵抗するもの、従順の態度を失するものは容赦なく即座に殺戮した
、終日各所に銃声がきこえた。
太平門外の大きな外壕が死骸でうずめられてゆく。
(中略)
下関のめぬきの通りはほとんど全部焼け落ちていた、バンドは数百の自動車が乗りすてられ、数百の死骸が一つ一つ岸から流れていく。
↓
これが南京大虐殺の「日常」。この無神経が、日本人による中国人の大量殺人と、その記録を可能にしたわけです。
これだけの殺戮をしておきながら全く悪びれていないのが、同じ日本人として恥ずかしく、情けなくなりますが、当時の日本は中将であっても(いや中将だからこそ)ここまで「洗脳」されていた、ということなのでしょうね。
こうした日本側の軍人の手による記録は他にもたくさんありますが、南京大虐殺否定派はこれらの記録もすべて否定しなければなりません(不可能ですね)。
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