○○○ (気付いたときには) 遅すぎる日記 ○○○
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2016年 7月 1日(金)
『週刊金曜日(16/6/17)』
より。
偏向と中立について考える
(P20、石橋学「安倍政権と言論統制・新聞『偏っていますが、何か』」)
弊紙
(神奈川新聞)
「時代の正体」シリーズについて、記事が偏っているという批判に対して「偏っていますが、何か」と応える論考を書いたのは昨年10月のことだった。1つの論は立場や考えが違えば偏って受け止められるのは当然で、政権の悪口ばかり書くなと言うのなら、ジャーナリズムの役割なのだからやめるわけにはいかない、そして、民主主義にとって大切なのは多様性であるとして、私は続けた。
「だから空気など読まない。忖度しない。おもねらない。
孤立を恐れず、むしろ誇る。
偏っているという批判に
『ええ、偏っていますが、何か』
と答える。そして、
私が偏っていることが結果的に、あなたが誰かを偏っていると批判する権利を守ることになるんですよ
、と言い添える」
平たく言えば、偏向批判とは「お前の言っていることは気に入らない」と言っているにすぎず、ためにする批判なのだから取り合う必要もなく、だから記者は思うところを書いていけばよい──それは自分たち自身に向けた戒めのメッセージでもあった
。
両論併記の体裁にこだわるメディアの「中立病」が言われる。空疎な論さえも同じ土俵に引っ張り上げて対置して、結果、「お前の言っていることは気に入らない」が、さも真っ当な意見であるかのように仕立て上げられてゆく。批判を恐れ、中立という隠れみのに逃げ込む保身にとどまらない問題がそこにはある。
●「差別に中立はない」
私が偏ることの大切さを強調するのは、ヘイトスピーチの取材を続けていることと無縁ではない。川崎で繰り返されるヘイトデモの被害にさらされている在日3世の崔江以子さん(42歳)が国会の参考人意見陳述で訴えたのも「偏ってほしい」だった。
「差別に中立はない。中立とは放置すること。国にも差別をなくす側に一緒に立ってほしい」
。それは人間の存在を否定する人権侵害を前にしてなお、表現の自由を絶対視し、規制に慎重論を唱えるメディア、あるいはネット右翼の攻撃にさらされることを恐れ、報じることもないジャーナリズムの姿勢に向けられたものでもあるに違いなかった。
↓
よく考え抜かれた論考です。
個々の記事が偏っているのは当たり前。偏っていない報道など無い。だから、そこで「偏らないようにしよう……、偏らないようにしよう……」などと悩む必要はない。権力を監視するというジャーナリズムの使命を忘れずに、伝え続ければ良いだけだ。なんと、シンプルなことか!
また、メディアに求められる「中立」とは、本来、「報道内容について、規制をしない」ということのはず。つまり、「この件は、政府や政権に都合が悪いから伝えない」などという忖度をして報道の自主規制をすることこそが中立に反する──ということ。与党に都合の悪いことも、野党に都合の悪いことも、偏らずに報道する。それでこそ「中立」が保証されるのである。
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